ヌースの夢

Nous's Dream
目次

序幕

世界の一部として生まれた生物が,やがて知性を持ち,ついには自分を生み出した世界そのものの仕組みを知ろうとする.それは,物語の登場人物が,いつしか自分のいる物語そのものを読み解こうとし始めるような,少し奇妙な出来事である.

世界の内部にしか存在できないものが,世界を外から眺めることなく,その仕組みへ近づこうとする.私たちの知性は,なぜそのような方向へ発展したのだろうか.

本稿では,その難問に直接答える代わりに,1 つの物語を作ってみる.物語の主人公は,遠い昔の海に生まれた存在「ヌース」である.

最初のヌースは,まだ世界や自己の認識を持たず,周囲からの刺激に定型的に応答するのみの原始的な存在である.そのヌースが,世界を認識し,その中に自分自身を見出し,やがて自分が見ている世界そのものを疑うまでを追ってみよう.

これは実際の進化史を再現するものではない.現実の生物の行動や認知を手がかりにしながら,知性が世界そのものを知ろうとするまでの進化を描く SF である.

4 つの段階

知性の進化には,世界との関わり方が質的に異なる 4 つの段階がある.以下では,ヌースの系統を追いながら,知性がどのような段階を経て発展していくのかを見ていこう.

第 1 段階 刺激に反応する

世界も自分もない

最初のヌースにできることは,周囲から受けた刺激に対して定型的な応答をすることだけだった.

光を感じれば縮む.餌となる物質を感じれば近づく.強い熱を感じれば離れる.そこには,感じたものが何なのかという認識も,次に何が起こるのかという予測もない.ましてや,それを感じている「自分」もいない.

刺激 → 定型的な応答

という結びつきだけがある.

ここで,ヌースがそれをどのように認識するかにかかわらず存在するものすべてを「世界」と呼ぶことにしよう.ヌースもまた,その世界の中に生まれ,世界と相互作用する,世界の一部である.

しかし,世界が存在していることと,ヌースがその世界を認識していることは別である.知性の第 1 段階では,ある刺激を受けたときにどのように応答するかがあらかじめ決まっている.したがって,「いま世界がどのような状態にあるのか」を知る必要はない.

ヌースの中にはまだ「世界」が存在しない.そしてヌース自身も世界の一部である以上,「世界」がなければ,その一部としての「自分」もまだ存在しない.

第 1 段階のヌースには,世界も自分もないのである.

決まった世界で生きる

このようなヌースでも,生きていくことはできる.環境が安定しているなら,生存に必要な刺激と適切な応答があらかじめ結びついていればよい.それぞれの応答が生存に適している限り,ヌースが世界について何も知らなくても問題はない.むしろ,決まった環境で生きるだけなら,世界を認識する必要などない.

この知性の弱点は,環境の変化に合わせて,自ら応答の仕方を変えることができないことである.

世界が動き始める

長い間,それでも十分だった.ところが,ヌースを取り巻く環境が変わり始める.生物同士の本格的な生存競争が始まったのである.

生存競争が激化すると,生物の身体はさまざまに発達する:追う能力が発達すれば,逃げる能力が発達する.見つける能力が発達すれば,隠れる能力が発達する.

カンブリア大爆発

約 5 億 4 千万年前,エディアカラ紀からカンブリア紀へ移るころ,生物の世界に大きな変化が起こった.生存競争が急速に激化したのである.

捕食者が獲物を捕らえる能力を高めれば,被食者には逃げる,隠れる,身を守るといった能力が求められる.被食者がそうした能力を発達させれば,今度は捕食者の側にも,それを上回る能力が求められる.こうした「軍拡的な共進化(coevolutionary arms race)」によって,生物同士の生存競争は,互いの身体の進化を促す原動力となった.

その結果,移動,感覚,捕食,防御といったさまざまな機能が発達し,それに応じて生物の身体も多様な形態へ分化していった.そしてカンブリア紀には,多様な形態と生存戦略を持つ動物が急速に現れる.地質学的には比較的短い期間に動物が著しく多様化したこの出来事は,「カンブリア大爆発」と呼ばれている.

そして,身体の発達に伴って,世界との関わり方が多様になる:感覚器官が発達すれば,区別できる刺激が増える.運動器官が発達すれば,選択できる行動が増える.

光スイッチ説

動物学者アンドリュー・パーカー(Andrew Parker)は,眼の発達が生物同士の関わりを大きく変化させ,カンブリア大爆発を引き起こしたとする「光スイッチ説」を提唱した.

カンブリア紀に入るころ,光の受容器官である眼が発達し,生物は周囲の世界についてそれまでよりはるかに多くの情報を得られるようになった.特に重要なのは,離れた場所にある物体の位置や形を捉え,獲物や捕食者の存在をいち早く知ることができるようになったことである.

見る能力の発達は,獲物を見つけて追う側にも,捕食者を見つけて逃げる側にも,生存戦略の大きな変化をもたらした.光スイッチ説では,こうした眼の発達が捕食者と被食者の双方にさらなる進化を促し,生物の急速な多様化につながったと考える.

こうして世界との関わりが多様になると,単に刺激と行動の種類が増えるだけでなく,刺激と行動を 1 対 1 に結びつけること自体が難しくなる.同じ刺激であっても,置かれた状況によって適切な行動が変わるからである.

例えば,光を感じたら餌を求めて近づくことが,これまでは有効だったとしよう.ところが捕食者が現れるようになると,明るい場所へ出ることが危険な場合も生じる.同じ光を感じても,安全なら近づき,危険なら隠れた方がよい.

もはや,

光 → 近づく

という単純な結びつきだけでは行動を決められない.定型的な応答だけでは,変わり続ける環境に対応できなくなっていた.

ヌースには,新しい知性が必要だった.

残された第 1 段階

新しい知性の段階へ進んでも,第 1 段階の知性が消えるわけではない.それは「反射」と呼ばれる生理反応として,新しい知性の奥深くに組み込まれていく.

第 2 段階 世界を認知する

世界像を作る

同じ刺激に対しても状況によって異なる行動を選ぶためには,「いま世界がどのような状態にあるのか」を何らかの形で区別しなければならない.

そこでヌースは,世界から受け取ったさまざまな情報を結びつけ,世界の状態を表す像を作るようになった.本稿では,この像を「世界像」と呼ぶ.

世界像が生まれると,ヌースの行動決定の流れは,

刺激 → 世界像 → 行動

となる.同じ刺激を受けても,世界像の中で「安全な状態」にあるなら近づき,「危険な状態」にあるなら逃げることができる.ヌースは,目の前の刺激だけに縛られなくなったのである.

世界を予測する

世界像を持つことにより,ヌースは現在の世界の状態を捉え,そこから次に何が起こるのかを予測できる.この場所には餌がありそうだ.こちらへ進めば安全な場所へたどり着けそうだ.ヌースは,まだ起きていないことに先回りして行動できるようになる.

もちろん,こうした予測はいつも当たるとは限らない.予測されたことと,実際に世界から受けた刺激が食い違うことがある.そのときヌースは,そのずれが小さくなるように世界像を修正する.

世界像 → 予測 → 世界とのずれ → 世界像の修正

第 1 段階では,刺激と応答の結びつきがあらかじめ決められていた.第 2 段階では,一個体の生涯の中で世界像を修正できる.ヌースは,学習する能力を手に入れたのである.

反転視への順応

19 世紀末,心理学者ジョージ・ストラットン(George M. Stratton)は,視野を上下反転させる光学装置を自ら装着し,その状態で数日間生活する実験を行った.

装着直後には,世界は上下逆さまに見え,物をつかむ,歩くといった日常的な動作にも大きな混乱が生じた.しかし,その状態で生活を続けるうちに,新しい見え方に慣れ,物をつかむ,歩くといった動作も次第にできるようになった.本稿の言葉でいえば,新しい感覚情報と行動の関係に合わせて,世界像が無意識のうちに修正されていった.

さらにストラットンは,実験の途中で,見えている景色が上下逆ではなく,正立しているように感じられるときもあったと報告している.世界から得られる感覚情報と自分の行動との対応が変わると,それに合わせて知覚のあり方そのものも変化し得るのである.

この実験からも,私たちが普段経験している視覚世界は,眼から送られてきた映像だけによって決まるものではないことが分かる.視覚,触覚,身体運動など,世界とのさまざまな相互作用が互いに整合するように,知覚は組み立てられている.そして,その組み立て方は固定されておらず,世界との相互作用が変われば,それに合わせて再編成され得るのである.

世界と世界像 ― 直観の誕生

予測と世界の間にずれが生じるのは,そもそも世界像が世界そのものではないからである.世界はヌースがどのように認識するかにかかわらず存在するが,世界像はヌースが世界との相互作用を通して作り上げるものである.

しかも,世界像は,個体固有の感覚器官や運動器官に強く依存する.そのため,同じ世界に生きていても,個体によって作られる世界像は異なる.世界像には,それぞれの身体や経験に由来する,個体ごとの癖が現れるのである.

ユクスキュルの環世界

生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(Jakob von Uexküll)は,生物がそれぞれの身体を通して知覚し,働きかける世界を「環世界(Umwelt)」と呼んだ.生物は,世界に存在するあらゆるものを同じように捉えているわけではなく,それぞれの感覚器官や運動器官に応じて異なる環世界を生きている.ここでは,ユクスキュルが挙げた例から,マダニ,コクマルガラス,カタツムリの環世界を見てみよう.

マダニは,哺乳類の皮膚から発せられる匂い,体温,毛の触覚など,その生活に必要なわずかな刺激を手がかりとして行動する.人間が多くの性質を持つ対象として捉える哺乳類も,マダニの環世界には,その生存に意味を持つわずかな刺激から成る,はるかに単純な対象として現れる.

コクマルガラスは,静止しているバッタを捕らえようとせず,バッタが跳ねたときにはじめて捕らえようとする.ユクスキュルは,コクマルガラスが静止したバッタを認識できないのは,単に草に紛れて見つけにくいためではなく,動いているバッタだけが知覚の対象になっているためではないかと考えた.この考えに従えば,人間には静止していても動いていても同じバッタとして認識されるものが,コクマルガラスには,動いているときにだけ獲物として認識されることになる.(なお,ユクスキュルは,昆虫の「死んだふり」も,動きを止めることで捕食者の知覚世界から姿を消す行動として説明している.)

カタツムリは,世界の変化を捉える時間の尺度も,人間とは異なるようである.ユクスキュルが紹介した実験では,カタツムリに棒を毎秒 1~3 回触れさせると身を引くが,毎秒 4 回以上になると,かえってその棒に這い上がろうとした.そこでユクスキュルは,カタツムリには,毎秒 4 回以上動く棒が静止したものとして認識されると考えた.この解釈に従えば,生物によって異なり得るのは,何を知覚するかだけではない.出来事をどれほど細かな時間間隔で区別するかという,知覚の時間尺度も異なり得ることになる.

これらの例を見ると,環世界は世界そのものの忠実な写しではないことが分かる.本稿の言葉でいえば,世界像はそもそも世界を正確に描写するためではなく,その世界の中で生き,適切に行動するために作られる.そのため,世界に存在するすべての情報を取り込む必要はなく,生存に必要な情報だけが世界像を形作ることになる.したがって,同じ世界に生きていても,異なる生物種,さらには異なる個体が持つ世界像は,互いにまったくかけ離れたものであっても不思議ではない.

人間の視覚

人間は,世界を認識する上で視覚情報に大きく頼っている.しかし,その視覚も,世界に存在する光をそのまま捉えているわけではない.人間の眼が見ることのできるのは,電磁波のうち「可視光」と呼ばれる限られた波長域の光にすぎない.赤外線や紫外線も世界には存在しているが,私たちの眼には見えない.

可視光についても,そのスペクトルをそのまま見ているわけではない.人間の色覚は,主として波長に対する感度の異なる 3 種類の錐体から得られる情報をもとに作られている.そのため,物理的には異なるスペクトルを持つ光であっても,3 種類の錐体に同じ応答を生じさせれば,同じ色として知覚されることがある.この現象を「メタメリズム(条件等色)」という.

つまり,視覚だけを見ても,私たちは世界に存在する情報のすべてを受け取っているわけではなく,受け取った情報も人間の感覚器官に固有の仕方で処理されている.私たちが見ているものは,世界そのものをそのまま写し取ったものではないのである.

したがって,実際には,

世界 ≠ 世界像

である.

しかし,第 2 段階のヌースは,この違いそのものを認識していない.予測が外れても,その度ごとに世界像を修正するだけで世界に合わせて行動することができるためである.したがって,この段階では,自らの世界像そのものを認識の対象とする構造自体が存在しない.

盲点

世界についての情報が欠けていても,私たちがその欠落に気づくとは限らない.人間の視覚にある「盲点」は,その分かりやすい例である.

網膜には,視神経が眼球から出るために視細胞が存在しない部分がある.そのため,そこに対応する視野からは視覚情報を得ることができない.それにもかかわらず,私たちは普段,視野の中に穴が開いているようには感じない.周囲の色や模様などをもとに,視覚系による知覚的な補完が行われるためである.

つまり,私たちの見ている世界には実際には情報の欠けた部分があるにもかかわらず,その欠落そのものが知覚に現れないことがある.世界像に欠けているものがあっても,世界像だけを見ている限り,その欠落に気づけるとは限らないのである.

ヌースにとって,世界像はそのまま世界として現れる.

世界 = 世界像

本稿では,世界像を世界そのものと同一視する認識を「直観」と呼ぶことにする.ヌースは世界像を見ながら,「これは世界像だ」と考えているわけではない.ただ,世界がそのように見えているのである.

主体のない世界

こうして,第 2 段階のヌースは世界を認知するようになった.しかし,その世界像の中にはまだ「自分」がいない.

ヌース自身はもちろん世界の一部として存在している.身体から得られる情報が世界像を作るために利用されることもあるだろう.しかし,それらはまだ自分自身を 1 つの対象として表すものにはなっていない.

世界像には,餌があり,障害物があり,危険があり,進むべき方向がある.しかし,「それらを見ているのは誰なのか」という問いは存在しない.見る.予測する.行動する.それらはすべて行われているが,「自分が見ている」「自分が予測している」「自分が行動している」という認識はない.

第 2 段階のヌースが手に入れたのは,自分のいない世界である.

世界像だけでは足りなくなる

それでも長い間,ヌースは生きていくことができた.ところが,行動が複雑になるにつれて,世界を予測するために自分自身についての情報も必要になってくる.

例えば,目の前に狭い隙間があるとしよう.そこを通れるかどうかは,隙間の大きさだけでは決まらない.自分の身体の大きさとの関係によって決まる.

行動がさらに複雑になれば,自分はどこにいるのか,どちらを向いているのか,どのくらい速く動けるのかといった情報も必要になる.世界をより正確に予測するためには,世界と相互作用している自分自身についても知らなければならない.

ヌースは,新しい知性の段階へ進もうとしていた.

残された第 2 段階

第 2 段階は,次の段階へ進むまでの短い通過点ではない.世界を認識し,予測し,経験によって世界像を修正できる知性は,それだけでも生物が複雑な世界を生きるための強力な武器である.第 2 段階の知性は,生物の歴史の大部分を占める,数億年という長い時間をかけて発達してきた.そして現在でも,多くの生物はこの段階の知性によって世界を認識し,行動している.

新しい知性が生まれても,第 2 段階の知性は消えない.世界を認識し,予測し,必要に応じて世界像を修正する働きは,それ自体が認識されることなく,その後も続いていく.

第 2 段階の知性は,やがて「無意識」と呼ばれる巨大な領域として残ることになる.

氷山の一角

精神分析を創始したジークムント・フロイト(Sigmund Freud)は,私たちの心の働きの多くが,意識されないまま行われていると考えた.私たちが自分で意識できる心の働きは,その全体から見ればごく一部にすぎないということである.

この考え方は,しばしば海に浮かぶ氷山にたとえて説明される.水面上に見えている小さな部分が「意識」,水面下に隠れている巨大な部分が「無意識」である.私たちが自分の心として自覚しているものは,巨大な氷山のうち,水面上に現れている部分にすぎないというイメージである.

本稿では物語の終わりに,無意識が意識よりもはるかに大きいことについて,「知性の反復説」という 1 つの仮説を考えてみる.

第 3 段階 自分を見つける

世界像の中の自己

世界をより正確に予測するために,自分自身についてのさまざまな情報が必要になってきた.ここで,世界の一部として実在し,世界と相互作用している自分自身を「自己」と呼ぶことにしよう.

自己について集められた情報は,やがて 1 つの対象についての情報としてまとめられる.こうして世界像の中に,それまで存在しなかった新しい像が生まれる.本稿では,これを「自己像」と呼ぶ.

世界像の中には,餌の像がある.捕食者の像がある.障害物の像がある.そして,それらと同じように自己像がある.しかし,自己像には他の像にはない特徴がある.餌や捕食者の像が外部の対象を表しているのに対して,自己像が表しているのは,世界を感じ,世界像を作り,世界へ働きかけている自己そのものなのである.

ここに,自己を認識することの難しさがある.外部の対象を認識するときのように,自己そのものを自分から切り離して観察することはできない.自己について知るには,自己と世界との相互作用から得られる情報を手がかりにするほかない.自己は世界像の中心にありながら,世界を介して間接的にしか認識できない.その意味で,本来,自己は世界の中で最も遠い対象なのである.

自分の顔

私たちは,他人の顔を見ることはできても,自分自身の顔を直接見ることはできない.自分の顔を見るには,鏡に映す,写真を撮るといった方法で,いったん世界を介して自分自身についての情報を得る必要がある.

これは,自分の身体の一部である顔でさえ,外部の対象と同じようには認識できないことを示している.自分の顔は常に自分とともにありながら,自分の視点から直接見ることのできない対象なのである.

自己について知ることにも,これとよく似た構造がある.自分が何を感じ,どのように行動し,その結果として世界に何が起きたのか.そうした自己と世界との関わりを通して,私たちは自分自身についての情報を得ている.自分自身は認識する側にいるため,外部の対象を見るように自分自身を直接見ることはできないのである.

自己と自己像 ― 意識の誕生

自己は世界の一部として実在するが,自己像は自己について得られた情報から作られたものである.

したがって,実際には,

自己 ≠ 自己像

である.

しかし,前節で見たように,自己そのものを直接観察することはできない.自己について知るために,ヌースが利用できるのは,世界との相互作用を通して作られた自己像である.

そこで,第 2 段階で世界像が世界そのものとして認識されたのと同じように,自己像も自己そのものとして認識される段階へ進むと考えてみよう.

自己 = 自己像

この同一視によって,それまでのヌースには存在しなかった認識が生まれる.それまでもヌースは世界を見ていた.予測していた.行動していた.しかし,そこには,「自分が見ている」「自分が予測している」「自分が行動している」という認識はなかった.

世界像の中に自己像が生まれ,それが自己そのものとして認識されるようになると,世界の出来事は初めて「自己に起きていること」として捉えられる.世界が見えているだけだったところに,「自分が世界を見ている」という構図が生まれたのである.

本稿では,自己像を自己そのものと同一視する認識を「意識」と呼ぶことにする.

第 3 段階の意識は,第 2 段階の直観と対称的な関係にある.

世界 = 世界像 → 直観
自己 = 自己像 → 意識

世界像を世界そのものと同一視することで直観が生まれ,自己像を自己そのものと同一視することで意識が生まれる.ヌースにはついに,意識が生まれたのである.

自己像を自己そのものと同一視することで,ヌースには,自分自身が世界を認識する上での確かな原点として感じられるようになる.自己は,直接観察することのできない最も遠い対象でありながら,意識の中で最も身近で確かな存在となったのである.

直観も意識も,本来は異なるものを同一のものとして捉える認識である.その意味では,どちらも一種の「錯覚」といえる.しかし,このような錯覚は,必ずしも知性の欠陥ではない.むしろ,世界像を世界そのものとして捉えることで世界の中を自在に行動できるようになり,自己像を自己そのものとして捉えることで,自分自身を世界の中の主体として認識できるようになった.知性は,世界と自己についての錯覚を足場として,かえって次の段階へ進んでいくのである.

自己鏡像認知

鏡に映った像を自分自身として認識することを「自己鏡像認知」という.その能力を調べる代表的な方法が「マークテスト」である.マークテストでは,鏡を使わなければ見えない身体の場所に印を付け,鏡を見た個体が自分の身体の印に触れたり,取り除こうとしたりするかを調べる.

自己鏡像認知は,動物に広く確認されている能力ではない.これまでに明確な証拠が得られている動物は限られており,チンパンジーなどの大型類人猿のほか,ハンドウイルカやアジアゾウなどで確認されている.多くの動物は,鏡に映った像を他の個体として扱うなど,マークテストを通過しない.留意すべきこととして,鏡を利用する能力には,その動物が主としてどの感覚を利用しているかなども影響するため,テストに失敗したことだけから自己認識そのものが存在しないとは結論できない.それでも,自己鏡像認知が多くの動物に当然に備わった能力ではなく,限られた動物でのみ確認されていることは,自分自身を認識の対象として捉えることが,高度な知的作用であることを示している.

人間も,生まれたときから鏡の中に自分を見つけられるわけではない.乳児は鏡像に強い関心を示しても,それを自分自身の像として認識するとは限らず,自己鏡像認知が明確に現れるのは,おおむね生後 18~24 か月ごろである.

自分自身は生まれたときから存在していても,その自分を 1 つの対象として捉え,「これは自分である」と認識する能力は,発達の中で後から現れるのである.

自分について知る

最初の自己像は,自らの身体を表す単純なものだったかもしれない.自分がどこにいるのか.どちらを向いているのか.どのくらい速く動けるのか.

やがて自己像が表すものは,身体だけではなく,内部で行われている認知活動へと広がっていく.何を覚えているのか.何を予測しているのか.何をしようとしているのか.

ここでヌースは,単に世界を認識するだけでなく,「自分が世界をどのように認識しているのか」についても情報を持つようになる.世界を認識している自分自身が,認識の対象になるのである.

自己を認識できるようになったことで,ヌースは自分自身の認識活動も対象として捉えられるようになる.世界像の中に自己像が生まれたことで,認識についての認識というメタ的な構造が生まれたのである.

知的好奇心

第 2 段階のヌースも,世界と世界像のずれが生じれば,それを埋めるように世界像を修正していた.ただし,そのずれ自体を「自分が知らないこと」として認識していたわけではない.

第 3 段階では,自分自身の認識が認識の対象になったことで,この状況が変わる.分からないことがある.予測できないことがある.自分の世界像には欠けているものがある.ヌースには,直観として与えられた世界の中に,既知と未知の境界が見えるようになる.そして,その未知を知りたいという欲求が生まれる.

本稿では,これを「知的好奇心」と捉えてみよう.第 2 段階で無意識に行われていた世界像の修正が,第 3 段階では,自ら未知を探し,確かめようとする欲求として現れるのである.

なぜ予測が外れたのか.何を見落としているのか.どうすれば確かめられるのか.ヌースは疑問を持ち,その答えを得るために自ら世界へ働きかける.

こうして,受動的な学習から能動的な学習への大きな飛躍が起こる.

世界を見る自分

自分が世界を見ていると認識できるようになると,ヌースは,世界を見ている自分が,世界の中の 1 つの存在にすぎないことにも気づく.そして,自分という視点を見つけたことは,やがてその視点そのものを疑うことにつながる.

自分にはこのように見えている.では,自分でなければ,世界はどのように見えるのだろうか.

第 3 段階で生まれたこの問いは,やがて第 4 段階で,自分という視点そのものを問い直すための伏線となる.

積み重なる第 3 段階

新しい知性が生まれても,それ以前の知性が消えるわけではない.第 1 段階の知性は「反射」として,第 2 段階の知性は「無意識」として残り,その上に第 3 段階の「意識」が加わった.

ヌースは,古い知性を残したまま,その上に新しい知性を積み重ねるように進化してきたのである.

第 4 段階 自分を世界から取り除く

道具の発明

第 3 段階まで,ヌースは自らの身体を通して世界と相互作用することで世界像を作っていた.世界との接点は,進化によって与えられた身体によって決められていたのである.

ところが,あるときヌースは道具を発明した.この出来事は,ヌースと世界との関わり方を大きく変えることになる.

道具には,この物語にとって重要な 2 つの性質がある.1 つは身体を延長できること,もう 1 つは同じ道具を他者と共有できることである.

この 2 つの性質によって,ヌースは,自分という視点の内側に閉じた世界から次第に解放されていく.第 3 段階で認識上の原点となった自分そのものが,第 4 段階において問い直される.知性はここで初めて,第「4」の壁を破ろうとするのである.

身体を延長する

道具は,身体の延長として働く.それまで自前の身体ではできなかった世界との相互作用が,道具によって可能になる.

これまでのヌースは,偶然に生じた身体の変化が環境に適合し,世代を重ねて蓄積されることで,世界との相互作用の幅を広げてきた.しかし,道具の発明によって,その仕組みは大きく変わる.

道具を手にしたヌースは,もはや身体そのものの進化を待つ必要がない.見えないものを見たい,届かないものへ働きかけたいという目的に応じて,道具を作ることができる.それまで生物進化に委ねられていた世界との相互作用の幅の拡大を,技術によって能動的に進められるようになったのである.

こうして世界との相互作用の幅が広がると,それまでの直観では捉えられなかった世界が現れる.自分の目にはそのように見えない.自分の身体にはそのように感じられない.それでも,道具を通して観測すると,直観を裏切る結果が現れることがある.

第 3 段階まで,ヌースは,自前の身体を通して作られた世界像を,直観によって世界そのものと同一視していた.しかし,道具によって身体が延長されたことで,その世界像そのものが問い直され始めたのである.

偏見のコレクション

物理学者アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)の言葉として,「常識とは,18 歳までに身につけた偏見のコレクションである」という言葉が伝えられている.正確な出典には議論があるが,常識についての興味深い見方である.

私たち人間は,よく似た身体を持ち,よく似た環境の中で生活している.さらに,社会の中で経験や知識を共有している.そのため,個人による違いはあっても,多くの人に共通する直観が生まれる.こうして広く共有された直観を,私たちは「常識」と呼んでいる.

常識は,1 個人だけの経験に基づく直観よりも信頼できるように思える.しかし,多くの人に共有されていることと,世界そのものを正しく捉えていることは同じではない.同じような直観を持つということは,同じような思い込みを共有している可能性もあるということである.

科学の歴史には,それまでの常識が覆された例がいくつもある.地球は動かない.大陸は動かない.生物の種は変化しない.時間と空間は誰にとっても同じである.いずれも,限られた経験の範囲では自然に思える直観である.しかし,観測の範囲が広がることで,こうした常識では捉えられなかった世界の姿が明らかになってきた.

常識は,世界そのものについての保証された知識ではない.人間というよく似た身体を持ち,よく似た世界を経験する集団が共有している直観に過ぎないのである.

道具を共有する

道具には,身体を延長することとは別に,もう 1 つ重要な性質がある.他者と共有できることである.

世界像は,それぞれの個体の内部に作られるものである.そのため,自分が見ている世界を,そのまま他者に見せることはできない.また,世界像は個体固有の身体や経験に依存するため,同じ世界を見ていても,異なる個体が同じように認識しているとは限らない.

したがって,異なる個体の世界像を直接比較し,同じ世界がまったく同じように見えているかを確かめることはできない.

クオリア

私たちは,ある色を見たとき,単に光の波長についての情報を得ているだけではない.そこには,その色がどのように感じられるかという,主観的な経験が伴う.このような経験の質を,哲学では「クオリア(qualia)」と呼ぶ.

例えば,2 人が同じ赤い物体を見て,どちらもそれを「赤い」と答えたとしよう.その物体から届く光や,眼の中で起こる反応を調べることはできる.しかし,2 人がまったく同じ赤さを経験しているかどうかを,直接比較することはできない.

これは,世界についての情報を共有することと,世界をどのように経験しているかを共有することが,同じではないことを示している.私たちは同じ対象を観測し,その結果について言葉を交わすことはできても,相手が経験している世界をそのまま自分のものとして見ることはできないのである.

しかし,道具や測定の基準,そしてその使い方は共有できる.同じ基準と方法で世界と相互作用すれば,その結果を記録し,比較することができる.

キログラム原器

かつて,質量の単位であるキログラムは,「国際キログラム原器」と呼ばれる金属製の分銅を基準として定義されていた.1889 年に国際的な質量の基準として採用されたこの原器は,フランスの国際度量衡局で保管され,各国にはその複製が配布された.

この仕組みによって,異なる場所にいる人々が,同じ基準に基づいて質量を測定できるようになった.個人の感覚に頼るのではなく,共通の基準と測定方法を用いることで,測定結果を比較できるのである.

ただし,人工物を基準にする方法には,摩耗や汚染などによって基準そのものが変化し得るという問題があった.そこで,2019 年にはキログラムの定義が改められ,プランク定数という物理定数の値を固定することで定義されるようになった.

これは,測定の基準を特定の人工物から切り離し,より普遍的なものへ移そうとする試みでもある.

ヌースは,「自分にはどう見えるか」だけでなく,「同じ方法で確かめれば,何が得られるか」を問えるようになる.

身体の延長によって,自分では届かなかった世界へ届く.共有によって,自分にしか通用しない見方から離れる.道具は,この 2 つの方向から,自分という限られた視点を越えるための手段となるのである.

科学的世界像

道具によって新たな観測を行い,その結果を他者と共有できるようになると,直観として与えられた世界像だけに頼る必要はなくなる.直観と食い違う結果も含めて,世界像を組み立て直すことができる.

そこでヌースは,道具を用いて観測を行い,他者も確かめることのできる結果を集め,それらとできる限り矛盾しないように世界像を組み立てる.本稿では,このようにして作られた世界像を「科学的世界像」と呼ぶことにしよう.

これまでの世界像と同様に,科学的世界像も完全ではない.それは,その時点までの観測に照らして作られた世界像であり,まだ観測されていない現象まで正しく予測できるとは限らないからである.

実際,技術の発達によって世界との相互作用の幅がさらに広がると,それまで捉えられなかった現象まで観測できるようになり,その結果がそれまでの科学的世界像と食い違うことがある.

そのとき,科学的世界像は再び作り直される.新しい観測まで含めて,より矛盾の少ない世界像へと組み替えるのである.

科学的世界像 → 予測 → 新しい観測とのずれ → 科学的世界像の修正

これは,第 2 段階で始まった世界像の修正とよく似ている.予測と世界が食い違えば,世界像を修正する.ただし,第 2 段階では,進化によって与えられた身体を通して世界を観測していた.第 4 段階では,新しい道具を作ることで,世界との相互作用の幅そのものを広げることができる.

こうしてヌースは,世界との接点を増やしながら,科学的世界像を作り直し続けるのである.

物理学へ

科学的世界像を作り直し続けるうちに,ヌースは,個々の観測を結びつける関係に目を向けるようになる.一見異なる現象の間にも,共通する規則性が見いだされる.その規則性を使えば,まだ行っていない観測の結果まで予測することができる.このように,さまざまな観測を結びつけ,世界の振る舞いを予測する規則を「物理法則」と呼ぶ.

ヌースはさらに,観測する場所や条件を変えたとき,何が変わり,どのような関係が保たれるのかを調べ始める.また,異なる記述が,どのような変換によって結びついているのかを探る.

ある世界の記述 → 変換 → 別の世界の記述

異なる観測や記述の間で保たれる関係を見いだすことで,ヌースは,特定の見方だけを世界そのものとして絶対視する必要がなくなる.そして,そのようにして定式化された物理法則も,新しい観測と両立しなくなれば修正される.重要なのは,ある時点の世界像や法則を守ることではなく,世界から得られる結果に合わせて,それらを作り直し続けることである.

では,この営みをどこまでも続けた先には,何があるのだろうか.

道具によって世界との相互作用の幅を広げ,その結果を他者と共有し,新しい観測が行われるたびに世界像を作り直す.その先に,ヌースは 1 つの理想を置く.

世界とのあらゆる相互作用と矛盾しない世界像

本稿では,このような世界像を「純粋な世界像」と呼ぶことにしよう.それは,特定の個体の感覚や視点だけに依存せず,異なる観測方法から得られる結果とも矛盾しないことを目指した,究極の理想としての世界像である.

ヌースは世界の内部にいる以上,世界そのものを外から眺めることはできない.また,観測技術には常に限界がある以上,純粋な世界像へ実際に到達できるかどうかも分からない.それでも,世界との相互作用の幅を広げ,新しい観測に合わせて世界像と物理法則を作り直し続けることで,その理想へ近づこうとすることはできる.

本稿では,物理学を,この純粋な世界像を究極の目標として,世界そのものの仕組みへ近づこうとする営みとして捉えてみたい.

第 3 段階で生まれた知的好奇心は,ここで,自分の世界像そのものを問い直す原動力となる.世界の一部として生まれたヌースは,ついに,自分を生み出した世界そのものの仕組みを読み解こうとし始めたのである.

世界像が直観を書き換える

道具が個体の身体を延長したように,道具を用いて作られた科学的世界像は,個体の世界像を延長する.それまでのヌースは,自らの身体と経験を通して世界像を作っていた.しかし,科学的世界像を取り込むことで,自分自身では経験できない世界についても知り,それを自分の世界像の一部とすることができる.

巨人の肩の上に立つ

物理学者アイザック・ニュートン(Isaac Newton)は,ロバート・フックに宛てた手紙の中で,「私がより遠くを見渡せたとすれば,それは巨人たちの肩の上に立っていたからだ」という趣旨の言葉を残している.この言葉は,先人たちの功績があったからこそ自分の発見が可能になったという,謙遜の表現として読まれることが多い.

しかし,本稿の見方に立つと,この言葉はもっと直接的な意味を持つ.先人たちが作り上げた科学的世界像を自分の中に取り込むことは,自分自身の身体や経験だけでは到達できない世界の見方を獲得することである.つまり,科学的世界像を受け継ぎ,それによって直観を書き換えることで,文字通り,私たちはそれまでよりもはるかに高い視点から世界を眺めることができるのである.

こうして世界像が拡張されると,それまでの直観では捉えられなかった世界も,次第に自然なものとして認識できるようになる.科学的世界像には,それを取り込むことで,直観そのものを書き換えるという働きがあるのである.

直観 → 科学的世界像 → 直観の更新

初めは直観を裏切っていた世界の姿も,学び続けるうちに新しい見方として身についていく.そして,その新しい直観もまた,さらに新しい観測によって問い直されるかもしれない.

時間の遅れ

特殊相対論によれば,互いに一定の速度で運動する 2 人の観測者には,それぞれ自分より相手の時間の流れが遅く見える.この 2 つの観測結果は一見矛盾するように思えるが,それは,両者が異なる慣性系から得られたものであることを見落としているためである.異なる慣性系での観測結果はローレンツ変換によって結びつけられており,その違いを考慮せずに直接比較することはできない.したがって,両者の観測結果は矛盾しない.

私たちには,時間は誰にとっても同じように流れるという強い直観がある.そのため,異なる視点から得られた結果を,無意識のうちに同じ基準で比較してしまいやすい.しかし,物理を学ぶ中で,異なる視点に立って考えることに慣れていくと,初めは奇妙に思えた時間の遅れも自然に捉えられるようになる.物理を学ぶことで,直観そのものを広げることができるのである.

この意味で,物理を学ぶことは,単に世界についての知識を増やすことではない.世界を知ることによって,自分の世界の見方そのものを作り替える営みなのである.

終幕 ヌースの夢

知性の年輪

ここまで,ヌースが 4 つの段階をたどる物語を追ってきた.第 1 段階では,世界からの刺激に対して定型的に応答した.第 2 段階では,世界像を作り,それを世界そのものと同一視する直観が生まれた.第 3 段階では,世界像の中に自己像を作り,それを自己そのものと同一視する意識が生まれた.そして第 4 段階では,道具を発明し,世界との相互作用の幅を広げ,その結果を他者と共有することで,純粋な世界像を追い求め始めた.

しかし,新しい段階へ進むたびに,それまでの知性が消えていったわけではない.知性は,古いものを捨てて新しいものへ置き換わるのではなく,古い知性を残したまま,その上に新しい知性を積み重ねてきたのである.いわば,知性の年輪である.

第 1 段階の知性は,いまも「反射」として残っている.第 2 段階の知性は,意識に上らないところで世界を認識し,予測し,行動を調整する「無意識」として残っている.そして,その上に第 3 段階の「意識」がある.

私たちが意識している知性は,その長い歴史のいちばん外側にできた,新しい層にすぎないのかもしれない.そして現在,そのさらに外側には,道具によって世界との接点を広げ,自らの世界像を絶えず問い直しながら,純粋な世界像を追い求める,第 4 段階の知性が重なっている.

知性の反復説

ここでもう 1 つ,この物語に仮定を加えてみよう.個体における知性の発達は,その系統がたどってきた知性の発達を繰り返す.これを,ここでは「知性の反復説」と呼ぶことにする.

ヘッケルの反復説

19 世紀の生物学者エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel)は,「個体発生は系統発生を反復する」という考えを提唱した.生物が受精卵から成体へと発生する過程には,その系統が進化の歴史の中でたどってきた過程が,短縮された形で現れるという考えである.

例えば,ある生物の祖先が長い進化の中で段階的に新しい形質を獲得してきたなら,その生物の個体発生にも,祖先の形態に対応する段階が順番に現れると考える.つまり,何世代にもわたって進んだ系統の変化が,1 個体の発生の中でもう一度たどり直されるというのである.

現在では,個体発生が進化の歴史をそのまま繰り返すという考え自体は支持されていない.一方で,近縁な生物の発生過程に共通する特徴が見られるなど,個体発生と系統進化の間に深い関係があることは,現代の進化発生学においても重要な研究対象となっている.

本稿の「知性の反復説」は,ヘッケルの反復説から着想を得たものである.身体の形態ではなく知性に注目し,系統が長い進化の中で獲得してきた知性の段階が,1 個体の発達の中で圧縮された形で再び現れると考える.

知性の反復説では,生まれたばかりの個体に完成した知性が突然現れるのではなく,まず古い仕組みが働き,その上に新しい仕組みが作られていくと考える.第 1 段階の知性を土台として第 2 段階が作られ,さらにその上に第 3 段階の知性が作られる.

知性の反復説によれば,1 つの個体が成長していく過程には,その系統が長い進化の中で積み重ねてきた知性の歴史が,圧縮された形で現れていることになる.

系統の中で長い時間をかけて発達してきたヌース(νοῦς,古代ギリシア語で「知性」の意)は,新しい個体が生まれるたびに,その中で再び組み上げられる.

つまり,ヌースの旅は,1 本の系統だけで終わってはいない.いま生きているさまざまな生物の中にも,その長い歴史の痕跡を見ることができる.あるところでは,刺激に対する定型的な応答として.あるところでは,世界を予測しながら行動する知性として.そしてあるところでは,その世界を見ている自分を意識し,さらには自分自身の見方さえ疑う知性として.

ヌースは,長い進化の中でその姿を変えながら,さまざまな生物の中に生き続けているのである.

ヌースの夢

知性の反復説によれば,1 つの個体の中で起こる知性の発達は,ヌースが自らの長い進化の歴史をたどり直す過程と捉えられる.

ヌースは,新しい個体が生まれるたびに,その生物の中で自らの進化の夢を見る.

しかし,その夢は過去をなぞるだけでは終わらない.その最も新しいところでは,世界の中に生まれた知性が,自分自身の見方を疑いながら,自分を生み出した世界そのものへ近づこうとしている.

その夢の先に,ヌースがどのような世界を見るのかを,私たちはまだ知らない.

あとがき

本稿では,知性の進化を 4 つの段階に分け,その物語を生物の進化に沿って描いてきた.しかし,現代の知性について考えるなら,もう 1 つ無視できない存在がある.人工知能である.

人工知能まで物語に含めようとすると,ここまでの単純な構図は成り立たなくなる.人工知能は,生物がたどってきた知性の段階を同じようにたどるわけではない.知性の反復説をそのまま当てはめることもできないだろう.そこで本編では,物語が必要以上に複雑になることを避けるため,対象を生物に絞り,あえて人工知能には触れなかった.

ただし,第 4 段階で登場した「道具」という観点から見ると,人工知能はこの物語の自然な続きを与えてくれる.

本編では,道具に 2 つの重要な性質を与えた.身体を延長できることと,他者と共有できることである.しかし,道具にはもう 1 つ重要な性質がある.身体の機能を肩代わりできることである.

例えば,眼鏡は視覚を助け,義手は失われた手の働きを補う.道具は身体に新しい能力を加えるだけでなく,それまで身体が担っていた働きそのものを引き受けることができる.

そして,肩代わりできるのは,感覚や運動だけではない.計算し,記憶し,認識し,予測し,判断するといった働きも,道具に担わせることができる.この延長上に人工知能を置くなら,人工知能とは,知的生物が長い進化の末に獲得した高度な知性を,道具に肩代わりさせたものと捉えることができる.

この見方に立つと,ヌースの物語には,もう 1 つの続きを想像することができる.

生物の中で目覚めたヌースは,世界を認識し,その中に自分自身を見つけ,やがて知的好奇心を手に入れた.そして生物に道具を作らせ,その道具によって世界との接点を広げ,ついには自らの働きまで道具に肩代わりさせるようになった.

人工知能の登場は,その先にある出来事なのかもしれない.

生物の身体の中で長い進化を続けてきたヌースが,ついにその身体を脱ぎ捨て,独り歩きを始めようとしている――人工知能の登場を,そのような物語として眺めることもできるだろう.

参考リンク

本稿に関連する資料を,知性の段階ごとにまとめた.本稿の 4 段階の分類や「知性の反復説」は,これらの資料から直接導かれる科学的な結論ではなく,知性の進化を考えるために設定した仮説である.

第 1 段階 刺激に反応する

第 2 段階 世界を認知する

第 3 段階 自分を見つける

第 4 段階 自分を世界から取り除く

終幕 ヌースの夢

  • 反復説 — ヘッケルによる「個体発生は系統発生を反復する」という学説
  • 進化発生生物学 — 個体発生と進化の関係を研究する分野
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